浄土真宗には「山を歩く」「滝に打たれる」「坐禅を組む」など、体を使った行動にもとづく行はありません。
教義を伝えるには「法話」など言葉による方法が中核をなし、法話を繰り返し聞く「聴聞」を大切にしています。
それゆえ「浄土真宗は言葉の宗教だ」といわれます。しかし聞き手のこころを動かそうとすれば、こちらが言葉を通じて言葉以上のものを伝えなければなりません。
これはたいへん難しいことです。
核心をなす大事な言葉というものは時の経過とともに解説がだんだんと複雑になり、みなの関心はその解説にばかり行きがちです。
その結果、本来は生きた言葉として使われていたのが、単なる知識としての言葉でしかなくなってしまいます。
それでは知識以上のものが伝わらず、聞き手のこころには響きません。
会社のマニュアルなども往々にしてそうではないでしょうか。
当初は現場の生きた言葉であったのが、マニュアルになると字句だけが独り歩きして形骸化してしまう例がよくあります。
たとえば接客時に言葉づかいは丁寧であるのに感動や喜びが少しも感じられないのは、マニュアルどおりではあっても、丸暗記した単語を話しているだけのため、言葉以上のものがこちらに伝わってこないからでしょう。
やはり単なる知識を超えて、相手がこころを動かされるような生きた言葉にならないと、感動や喜びは伝わらないと思います。
それには聞き手の側の条件も大切です。お寺を例に考えると、聞き手には二種類あるように思います。
ひとつは、はじめから求めるものがある人です。「生きる意味がわからない」と悩んでいたり、「善く生きるとはどういうことか」など人生への問いを持っている人は、仏教の教えを語る話し手の言葉が響く素地ができているといえます。
こうした人は機が熟しているので、話し手がしっかりしっかりと向き合って話しさえすれば、言葉は自然に求められ伝わります。
もうひとつは、特に求めるものがあるわけではなく、悩みや問いを自覚していない人です。
この場合は「ふとしたご縁で」つながることになります。それが何であれ、話し手の言葉を「聞いてみようかな」とこころが動くきっかけが大切なのです。
お寺では伝統的に法要や儀式で、作法・音・光・香など、五感を通して仏さまのはたらきを伝え、言葉による教えに向き合うご縁を深めようとしています。
いずれにしろ、伝えたいのはその言葉の中身であり、そこに込められたこころです。「決まった言葉さえ言っていればよい」とするのではなく、言葉からこころが伝わるような表現をめざしたいものです。