『仏説阿弥陀経』というお経には「阿弥陀如来の建立した浄土」が説かれています。苦しみという概念すら存在しないことから「極楽浄土」といわれます。
しかし実際に私たちがその世界に生まれるのは人生を終えた後ですから、生きている私たちにとって「極楽浄土」はおとぎ話のように感じる人が多いのではないでしょうか。
確かに実際に行ったことはないので「極楽浄土」はわからないかもしれません。
しかし私たちは「自分がいるのは極楽浄土ではない」ということはわかります。
仏教では私たちの生きている世界を「堪忍土」と呼びます。誰もが堪え忍ばなければいけない苦しみの世界であるということです。
お釈迦さまは「輪廻を繰り返す私たちがいのちの歴史の中で流してきた涙は大海と比べて遥かに多い(パーリ仏典経蔵「無始相応」)」とおっしゃっています。
涙には「嬉し涙」もありますが、ここで説かれているのは「悲しみの涙」や「悔し涙」、「怒りの涙」です。
世の中に幸福な人と不幸な人がいるのではなく、みんな苦悩を抱えてしか生きていけないのが本当です。
今年デビュー25周年を迎える歌手の宇多田ヒカルさんは「誰かの願いが叶うころ」という楽曲で「私の涙が乾くころ あの子が泣いてるよ このまま僕らの地面は乾かない」と歌っています。私たちは常に涙の中を生きていることが味わわれるフレーズです。
いまは笑顔の人であっても過去への後悔や将来への不安、人間関係の悩み、病気、死といった思い通りにならず、避けられない現実と隣り合わせを生きています。
この世界は「今、悲しみを抱えて涙する人間」と「これから悲しみを抱えて涙する人間」の2種類しかいません。
人間が生きるということは、悲しみを生きるということです。誰もが本質的には苦悩を抱えていくのが人間の世界です。
阿弥陀如来という仏さまは、私たちの苦悩を誰よりもご存知で、誰よりも悲しんでくださった仏さまです。
「辛いね、悲しいね。でも大丈夫です。そのあなたとともに生きる仏がおりますよ。あなたを苦しみのない世界であるお浄土に必ず生まれさせますよ」と私たちに告げ、いまこの堪忍土を生きる私たちのもとに「南無阿弥陀仏」のお念仏となって届いてくださっています。