仏さまの智慧に照らされ 私の浅ましい知恵が明らかになる

「自分は正しく、相手が間違っている」という思いを仏教では「我」といいます。私たちはいつでも自らを「是」とし、他を「非」として生きています。ですから何かあるたびに他の人とぶつかるのが私たちの生活です。しかし相手とぶつかるということは、自分がよく見えていないからです。

仏教では仏さまの「智慧」を説きます。仏さまではない私たちは「智慧」がないから相手とぶつかります。仏教の「智慧」は人間の「知恵」とは違います。生活の「知恵」や、おばあちゃんの「知恵」は人生経験を通して身につけるものです。

仏教の「智慧」の「智」とは「外面をありのままに見る」という意味があります。私たちはどれだけ視力がよくても、外面をありのままに見ることができません。いつでも自分の好き嫌いで世界を見ています。本当にありのままに世界を見られていれば、誰が見ても世界は同じように見えているはずです。しかし実際には違います。私たちは自分の思いでしか物事を見ることができないのです。

例えば知らない人の写真を見たときに「この人は犯罪者です」と言われると悪い人に見えますし、「この人は人命救助をしました」と言われるといい人に見えます。同じ顔を見ていても先入観によって見え方が変わってしまうのです。人間の目ほどあてにならないものはありません。

仏教の「智慧」の「慧」は「内面をありのままに見る」という意味があります。外面が見えていないのですから、内面についてはどれだけ近くにいる存在でもわかっていません。

生活を共にしてきた夫婦や血の繋がっている親子であれば相手のことをわかっているように思うかもしれません。ですが実際にはそうではないのです。たとえ血を分けた家族であっても相手に自分のことをすべて理解はしてもらえません。相手も同様です。親が偉そうに「お前のことはわかっている」という態度で接するので、子どもは親に反抗をします。

近くが見えていないから、遠くは見えません。周りが見えないということは、自分自身が見えていないということです。仏さまの智慧に触れるということは、そのありのままの自分を見ることです。

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2024年10月01日