前回の記事で、名言が生まれるためには、言葉を発した人だけでなく、その言葉を「名言である」と受け取る人も必要であるという芸人の千原ジュニアさんの考え方を紹介しました。
お釈迦さまの説法も、「これは素晴らしい説法だ!」と阿難尊者が聞き受けたからこそ、お経として残ったのでしょう。
また、お経の編纂会議(結集|けつじゅう)のときに参加していた人たちが「それは違う!お釈迦さまはそんなこと言わない!」と反対していたら、お経としては残っていなかったのかもしれません。
他にも、お経として残っていても「これは素晴らしいお経だなぁ」と受け取る人が後世にひとりもいなければ、きっとその経典は早い段階で絶版になったはず。
経典の内容を「これで私は仏さまになれるんだ」と喜んで受け取る人の歴史が、そのまま私の救いの歴史となることを考えてみると、非常に味わい深いものがあるのではないでしょうか。
同時に私がご法義を喜ぶ姿が、誰かの救いの歴史となることもあるはず。
七高僧や歴史に名前が残っていない多くのお同行はもちろんですが、やはり親鸞聖人が「阿弥陀如来の慈悲が有り難い」と喜んで聞き受けることがなければ、私が仏法に出遇うことはなかったわけですから、お聖教の言葉の一文字一文字は「私と深く関係している」と読み込ませていただかなければいけません。
合掌