伝道布教3

ここ最近は伝道布教について、「あーでもない、こーでもない」と考える機会が少しありました。考えたところであまり意味はないのかも知れませんが……。

とある研修会の音源を聞いていると、講師の先生が次のようにおっしゃっていました。

「みんなに分かってもらいたい」と思うことは大事ですが、
「みんなに分かってもらえるんだ」と考えるのは違います。

基本的に浄土真宗は「分からない」のです。これをどこか私たちは勘違いしているのかもしれません。

よく考えてみると、親鸞聖人とヒザを突き合わせて直接ご法義を聞かれた関東のご門弟の方々であっても、聖人が京都に帰られると分からなくなってしまい、わざわざ京都まで出向かれたといいます。
聖人から聞いていてもそうであるということは、やはり「分からない」のです。

分からないものに出遇って喜ぶというのが凄いのですが……。

その後、蓮如上人という素晴らしい人が現れました。
ここから、「浄土真宗はみんなに分かるんだ」と勘違いするようになりました。
でも、分からないのが本当です。仏教の中でもマイノリティです。

浄土門と聖道門は50:50ではありません。9割9分9厘が聖道門です。

そんな関係性ですから分かりません。分からないけれども、自分が阿弥陀さまに出遇わせていただいて、それが嬉しいから、その喜びを少しでもお伝えしていく。
もしも、その中でひとりでも、ふたりでも、ほんの少しこころを一緒に震わせいただく方がいらっしゃったら、それでいいのではないでしょうか。

にも関わらず、私たち僧侶は少し行き過ぎることがないでしょうか。
「どうすれば今、目の前で悲しんでいる方を悲しみから離れてもらうことができるのだろうか」。
そんなことをちょっと思ってしまうこともありますが、本当に辛いときや悲しいときは、私たちの手は届きません。

もしそこで誠実さを……まぁ誠実さなんてないんですけど、誠実なフリができるのだとすれば、
その涙を流している方と一緒に涙を流すことができる関係性を築けるかということでしょう。

そうした関係性を築くことをせずに出来上がった「伝わる話」というのは、そもそもないということを確認しましょう。

合掌

前の投稿

次の投稿

2018年06月25日