破邪顕正1

『築地本願寺新報』の特集で、「お盆」について書きました。といっても、読み物のような軽快なものではなく、調べた事実を淡々と書いただけの味気ない記事となりましたが……。


しかし、浄土真宗での「お盆」の取り扱いは少し厄介な点があります。
「亡くなった人(先祖)がお盆の時期に帰ってくる」という「霊(たま)祭り」に由来する日本の民間信仰と、
「阿弥陀如来に摂め取られて浄土に生まれた人は、私たちを導き救う還相(げんそう)の菩薩(ぼさつ)としていつでもはたらてくださる」といった浄土真宗の教義では、どうやってもすり合いません。


だからといって、「浄土真宗はお盆をしません!」なんてことはないので、従来のお盆の作法と矛盾が生じることが多々あります。

思い返せば「提灯を出すのは間違い」「精霊棚を用意してはダメ」「迎え火・送り火は禁止」と、否定することにエネルギーを注いでいた時期が私にもありましたが、いま思えば時間の無駄でした。


特集記事内にも「従来の作法を切り捨てる必要はない」とあえて書きましたが、案の定、偉い人に言われて書き直しをすることになりました。
否定をすることでしか浄土真宗の教えを伝えられないというのは、非常に悲しいことです。


山口県の深川倫雄和上は、次のような言葉を遺してくださっています。

破邪(はじゃ)というのは「いけません」という言葉。顕正(けんしょう)というのは「こうです」という言葉。
破邪がマイナスなら顕正はプラスの良い方です。 これは人格に係わることですが、私どもはなるべく「いけません」という言い方をしないように心掛けた方がいいですよ。

お坊さん方が、
「あなたがた、こういうお聴聞しておりゃしませんか、間違いですよ」と、たびたび言います。これはあまり誉めたことではありません。

「阿弥陀さまのご法義は、お念仏はこうですよ、こうですよ」と、お説教を終って知らん顔しとけばいいんです。聞き違おうが、違うまいが聞く者の勝手です。

それをお坊さんが、
「ひょっとすると間違うとりはすまいか、聞き間違うた者がおるだろう」
「いけません」と、こう言うんです。ちょっと過ぎたことです。
ことに私どものような田舎のお坊さんは、こんな破邪はやらんがええと、近頃、お坊さんの勉強会なんぞで言うております。

ところが次第相承(しだいそうじょう)の善知識(ぜんぢしき)さまは、教の位にいなさる。
教える位にいらっしゃるから、「いけません」というお言葉もあります。

あのね、私どもみんな心もちが教の位であります。子供を育てたからね
。子供を育てる、みな育てる。子供を育てるちゅうとねえ、

「左手で食べちゃあ、いけません」
「あぐらをくんでは、いけません」
「こぼしちゃあ、いけません」と、どれ程「いけません」を言うてきたでしょうかね。

「座っておたべ」、「丁寧にお持ち」と言えばプラスなんです。

「いけません」というのがマイナスの意味なんです。
しかし、どうしてもそう言わなければならんことありましてね。

障子を破ったら、「障子を貼りましょう」とは言われません。
「障子を破るな」と言わにゃ、しようがないから、次第に頭がそうなった。
教えの頭になってしまった。だからお説教も、教えの頭になりがちになります。

私どもは三部経の中、ことに阿弥陀さまのことをお釈迦さまが説いてくださった、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)の一段を拝読しますと、一ヶ所も「これはいけません」という処はないんです。

「あのなあ、法蔵菩薩さまがなあ、ご苦労なさって四十八願建ててくださって、お浄土こさえて待っていてくださると、聞く一つで参らせていただくんだよ」とね。それも生れて初めて聞いたんでしょ。お釈迦さまがお浄土からおいでて、はじめて阿弥陀さまのお説教なさったんですから、阿難その他も初めて聞いたんですよ。

全部「阿弥陀さまはなあ」とプラス、顕正。「こうです。こうです。」という言い方。

後でだんだん慣れてきたら、教でおっしゃる。お釈迦さまは、まず阿弥陀さまのことをお話しになる。それが終ってご自分のお説教を少しなさるときには、教の位であります。だから、「お説教はしっかり聞かねばなりません。忘れちゃいけません」と、「謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法」「聞法能不忘」とお戒めになるのは、教の位のお話しです。

だいたいこの世の中は、教のいい方です。というのが一番よくわかるのは教育。教育と熟しますね。

だからお父さん、お母さん、学校の先生が「いけません」が多いのです。

私ども時々、のみ屋に行くけれども、のみ屋のママさんはあまり「いけません」とは言いませんよ。
あまり「いけません。いけません」と言ってると客がこなくなると知っておるんです。

客ちゅうものは、「いけません」と、うるさい処には行きたくないんです。
阿弥陀さまの客、凡夫も「いけません」とうるさい処には近づかんということをご存知だから、おっしゃらん。

それだけではすまないと思われて、お釈迦さまが教の位としてお出ましなされ、ちょびっとご意見をくらわされるわけです。

阿弥陀さまのご法義は、決して教育の論理ではない。違うんです。お救いの論理です。叱らないで救うのであります。

今月号の『大乗』誌(昭和五十七年八月号)に載った私の短い文章は、あれは顕正の文章で、一ヶ所も破邪がありません。心がけて書きました。近頃なるべくマイナスは言わんように心がけております。

阿弥陀さまはそんな仏さまです。だからご法義には一ヶ所も、「いけません」とないのがほんとうです。

しかし善知識さまは教の位にいらっしゃるから、教の位の言葉使いをなさる。教育の言葉使いをなさる。その教の位の人の言葉使いをそのままは用いません。

合掌

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2018年06月26日