「浄土真宗の教えを聞いていない僧侶ほど、『浄土真宗はこうだから、これをしません』『浄土真宗でこれをするのは間違いです』って言いたがるよね」と先輩に言われ、
去年受講した研修会で先生が次のように語ってくださったのを思い出しました。
決してあってはいけないのは「浄土真宗では○○はしません」という言い方で相手に教えを告げることです。
浄土真宗の門徒のたしなみ──これは段々と時間をかけて自分の中で味わっていくのが尊いことではないでしょうか。
私自身も20~30代の時はそうでした。当時は「これが浄土真宗だ!」と、頑固な態度をとっていました。迷信や俗信にちょっとでも掛かりそうなことがあれば、厳しく排除していました。
ハロウィンやクリスマスをしようものなら、「異端者だ!」と考えていたほどです。
でも、ある時にふと気がつきました。「正月は何の疑問も持たずにやっているな……お中元もお歳暮も出しているし……」。これらは道教儀礼と儒教儀礼ですからね。
そちらには目をつぶって、他の分かりやすいことには「いけません」と言いたがる私は、浄土真宗を握りしめて相手を叩くことに快感を覚えていたのでしょう。
この姿がもっとも阿弥陀さまのご法義から遠かったな……と今では思います。
先人の知恵を上手に利用し、「正月」は「元旦法要」としてお念仏に出遇うご縁としておつとめすることもあります。
こんなことを言ったら怒られてしまうかも知れませんが、「ハロウィン法座」とか「クリスマス・お念仏の集い」とか、既存の行事のエネルギーの方向性を「一緒にお念仏を喜ぶ」といった向きに転換する工夫をするべきです。
最近よく見られる「これもダメ」「あれもダメ」のような「ダメダメ浄土真宗」になってから、非常に窮屈になっていった気がします。
もっと「アリアリ」でもいいのではないでしょうか──というのが歳を重ねてきた自分の味わいです。
全員にそうなって欲しいということではありませんが、悲しみの場で「ダメですよ」と相手に否定を告げる話だけはしないように今では気をつけるようにしています。
その現在のあなたの悲しみを抱いてかかえてくださる仏さまがいらっしゃる。その悲しむ相手に何もできない私を抱いてかかえてくださる仏さまがいらっしゃる。
このことをなんとか一緒に聞かせていただけるような法話になったら有り難いなという気がしています。
合掌