伝道布教2

前回の続きのような話です。

以前、中央教習に参加した時に奈良県の先輩僧侶Fさんから次のようなことを言われました。

「ここに参加しているご門徒さんたちは、それぞれの地元で連続研修会を修了した“聴聞の達人”のような人ばかり。
しかし、実際に話し合い法座で浄土真宗の教えの受け止め方を皆さんから聞いてみると、ちゃんと分かっている人は驚くほど少ない。
つまり……自分の話していることが相手に伝わっていると思ってはダメですよ」

ずっと現場に立つ先輩僧侶からの訓示でしたので、深く受け止めさせていただきました。
そういえば過去に東京でも先輩に似たことを言われた覚えがあります。


一方で、現場に立たない偉い僧侶や、あまり聖教を読まない僧侶や聴聞をしない僧侶は、「仏法は簡単に伝わる」と考えているから驚きます。

とある組織の重役に就いている僧侶が「お寺に参ってくるような既に仏法と出遇って喜んでいる人ではなく、お寺の外に対する伝道布教へもっと取り組むべき」と語っているのを聞いて、「お寺に参っている人は仏法と出遇って喜んでいる」と安易に考えていることに危うさを感じました。
「寺離れ」「宗教離れ」が叫ばれる中で、早急に何か対策を打たなければいけないのは確かなので、その人の言いたいことはよく分かります。
だからといって、そんなに簡単に喜べるものなのだろうか。「誰にでも言えるような中身のないそれっぽいことを言っているだけ」と厳しい批判をした若い僧侶がいるのもうなずけます。


親鸞聖人のお連れ合いである恵心尼さまのお手紙には次のような一節があります。

百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、

[私訳]親鸞聖人は雨の降る日も晴れた日も、どんなに風の強い日も法然聖人の元にお通いになりました。そして、私のいのちの行方については、善人も悪人も同じように迷いの世界を離れることのできる救いの道を、ただ一筋に仰せになっていた法然聖人のお言葉を拝聴して、しっかりと受け止められました。

20年の比叡山の修行ではさとりに到る道と出会うことができなかった親鸞聖人が、雨の日も風の日も命懸けで通い詰めて、ようやく聞き受けることができたの本願念仏の教えです。

それを私たちがちょっと何かをしただけで相手に伝わっていると考えることは、相手に対してだけではなく、親鸞聖人やご法義そのものに対しても非常に失礼な態度ではないでしょうか。

合掌

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2018年06月24日