今週の築地本願寺の常例講師である安德先生からこんなお話を聞きました。
とある仏教の学校での話です。
生徒のお金が盗まれる事件が発生し、学校中で問題になりました。
犯人は学校でも有名な問題児であることが分かり、被害者たちはすぐに先生に犯人の退学を求めました。
「事情は分かりました……申し訳ないけど、君たちが学校を辞めてくれないか?」
「えっ、僕たちが!?なんでですか!?」
「君たちはルールを守ることができる立派な人間だ。だから、この学校以外でも間違いなくやっていくことができる。どこへ行ってもしっかりと仏教を勉強することができる。
しかし、犯人の子はそうはいかない。ここを追い出してしまったら、彼を受け入れてくれる学校はもう他にはないだろう。彼が仏教を勉強できる学校はここだけなんだ。
もちろん、彼に注意はする。しかし、どうしても彼と一緒に過ごすことが難しいと言うのであれば、君たちに辞めてもらうしかない」
かなりうろ覚えですが……。ハッキリ言って、社会の価値観から考えたらこんな話は通じません。どう考えてもありえない話です。
浄土真宗には現代人が求めるような「実践や体験による自己変容」に応える側面はありません。
なぜなら、浄土真宗はどこまでいっても出家や修行ができない愚者・凡夫といった「弱者」に向けられた教えだからです。
だからこそ、浄土真宗は世間とは全く違う立ち位置にあります。
「馬鹿にするな。そんな教えは納得できない」
という立派な人も、いつかは弱者の側に立つ日が必ずやってきます。
その弱者を中心にして居場所を与えるところに浄土真宗の肝要があるのでしょう。
合掌