通夜布教

最後の晨朝布教を終えて、本山の常例布教終了。東京に帰ります。


8月の頭からお寺を空けていましたが、その直前に「親戚が亡くなるかもしれない」と言われていました。

「お世話になった方だけど、日によっては通夜・葬儀のご縁に会えないかもな……」

そう考えていましたが、通夜の日程が本日となったため参加することができました。


京都滞在中にご遺族から「通夜布教をお願いしたい」と連絡がありました。

お寺の人のお通夜で法話をするのは、親族以外の偉い先生が多いので断ろうとしたところ、

「こういうご縁を大切にしないでどうするんですか」

と、連絡をもらったときに一緒にいた先生に勧められて受けることに……。


本山常例中は時間がなかったため、帰りの新幹線の中でようやく考える時間ができました。

稲城選恵和上の本にこのような文章がありました。
『帖外御文章』の「死者を善知識とするの章」の解説です。

死者に対して誰にも通ずることは「アナタの死は無駄にしません」という言葉である。
無駄にしないのは生き残った人の側に責任がある。
いかなる死に方をしても、相手の死を無駄にしないと相手の死が永久に生かされることになるのである。
それゆえ、仏教では年忌行事を勤めることを法事とか仏事といわれるのである。
仏事も法事を、仏法にあわせていただく行事を意味する。
仏法に遇うことが死者の最高に生かされる道であり、無駄にしないことになるからである。
蓮師はこの御文章の終わりに、「このようなはかない人生を縁とし、善知識として本願にあう身になると、先立つ人が永遠に無駄にならないことになり、死者の生かされる唯一の道になる」として結ばれているのである。

世間では「死んだらしまいだ」という人もよくいる。死んだらしまいと考えるほど、死者を殺す考え方はない。
死んでも死者の永久に生かされる道は、仏法に遇うことのほかにない。

別の解説部分にも「死者に対する正しい態度は『アナタの死を無駄にしません』ということのほかにはない」とありました。


この言葉を中心に組み立てることにしました。それにしてももっと考える時間が欲しかった……。

合掌

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2018年08月22日