仕事の取材で会社の人と一緒に奈良県へ。
京都駅から電車で1時間強。当麻寺駅にやってきました。
駅から真っ直ぐ10分ちょっと歩きます。
當麻寺(たいまでら)に到着しました。
遡ること今から1400年。612(推古天皇20)年に、兄・聖徳太子の勧めによって麻呂古(まろこ)親王が「万法蔵院(まんぽうぞういん)」というお寺を建立しました。
場所は大阪府太子町と伝えられ、本尊は弥勒菩薩とも救世観音菩薩ともいわれます。
麻呂古親王はある日「万法蔵院を二上山(にじょうさん)の東麓に移すように」という夢を見ました。
二上山は大和では落陽を象徴する山です。浄土教でも日の沈む西の方角を浄土の象徴として味わいますが、当時の人々も何か特別な思いを寄せていたのかもしれません。
ところが、672(天武天皇元)年の壬申の乱をはじめとした混乱が多くあったため、麻呂古親王の存命中にはお寺を移すことはかないませんでした。
681(白鳳9年・天武天皇10)年に麻呂古親王の孫である当麻国見(たいまのくにみ)によって、万法蔵院が現在の地へ。
金堂にご本尊として弥勒菩薩をお迎えして、現在の當麻寺がはじまったと伝えられています。
元々は三論宗が盛んな学問寺院でしたが、平安時代のはじめに真言宗の密教寺院となりました。
南北朝時代のころ、浄土宗が境内奥に往生院(現・奥院)を創建。以降、真言宗・浄土宗の二宗共存寺院としての歩みがはじまります。
前述の通り當麻寺は弥勒菩薩のお寺として始まりましたが、曼荼羅堂(本堂)の本尊である『當麻曼荼羅(たいままんだら)』が有名です。
ちょうど奈良国立博物館では国宝『綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)』の修理完成を記念した特別展が開催されています。
レプリカが1,500円で売っていたので買ってみました。
『観無量寿経』の内容と極楽浄土の様相が緻密に表現されています。
〈photo by narahaku〉
ちなみに曼荼羅とは本来は密教用語です。當麻曼荼羅に代表される浄土曼荼羅の語は俗称で、正しく「浄土変相図(じょうどへんそうず)」と呼びます。
「変相図」とは仏教絵画のひとつで、浄土や地獄の様子を絵画的に描いたもの。「地獄絵図」も変相図です。
この『當麻曼荼羅』にまつわる有名な伝承「中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説」をご紹介します。
747(天平19)年、藤原豊成の娘として中将姫は奈良に生まれました。
観音菩薩に祈願して授かったため、中将姫自身も観音菩薩に深く帰依していたそうです。
4才の時に『称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)』と出会い、読誦をはじめました。
ちなみにこの経典は浄土真宗で大切にされている『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』の異訳本です。
詳しく説明すると、古代インド語で書かれた『Sukhāvatī-vyūha』という経典を、中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)が翻訳したのが『仏説阿弥陀経』で、玄奘(げんじょう)が翻訳したのが『称讃浄土経』です。
求那跋陀羅(ぐなばだら)が翻訳した『仏説小無量寿経』も存在した記録があるようですが、原本は見つかっていません。
中将姫は5歳のころに母親を亡くしました。
父・豊成は後妻を迎えたものの、中将姫とは折り合いが悪く、命さえ狙われたといいます。
しかし、中将姫は決して自分を殺そうとする継母を恨むことはありませんでした。
周囲に支えられながら、14歳のころより雲雀山(ひばりやま)で読経三昧の隠棲生活をはじめます。
隠棲生活から晴れて都に戻った中将姫は、『称讃浄土経』の読経だけでなく写経をするようになったそうです。
1000巻の写経を達成した16才のある日のことです。西の空へと沈む夕日の中に阿弥陀仏が浮かび上がり、茜色に染まる空一面に極楽浄土の光景が広がるのを目の当たりにしました。
この光景に心を奪われた中将姫は、「あの夕陽の中に見た仏さまにお仕えしたい」という一念で再び都を離れられました。
観音菩薩を念じながらひたすら歩いてたどり着いたのが二上山の麓。そこに建っていたのが當麻寺でした。
ところが、当時の當麻寺は男性僧侶のための修行道場で、女人禁制です。
入山が許されなかった中将姫は、門前にある石の上で一心に読経を続けます。
数日後、不思議にもその石には読経の功徳で中将姫の足跡が刻まれました。
その奇跡に心を打たれた當麻寺の住職は、女人禁制を解いて中将姫を迎え入れたのでした。
翌年の763(天平宝字7)年6月15日に剃髪の儀が執り行われました。このお堂は現在「中将姫剃髪堂」と呼ばれます。
法如という名を授かり尼僧となった中将姫は、翌日に剃り落とした髪を糸にして阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の梵字を刺繍しまして一心に願いました。
「あの日の夕陽の中に見た阿弥陀さまの姿、夕空に広がったお浄土の姿を今一度拝ませて欲しい──」
中将姫の願いは仏さまに届きました。
次の日、ひとりの老尼が中将姫の前に現れ「蓮の茎を集めよ」と告げました。
その言葉にしたがって、父・豊成の協力を得て大和のほか河内や近江からも蓮の茎を取り寄せます。
再び現れた老尼の協力のもと、蓮茎より糸を取り出し、その糸を井戸で清めると、不思議にも五色に染め上がったといいます。
當麻寺の近くにある石光寺には、
糸を井戸で清めた井戸(染の井)と、その糸を掛けた桜が伝わっています。
その後、ひとりの若い女性が現れ、五色に染まった糸を確認すると、中将姫を連れて千手堂の中へ入っていきました。
それから3時間くらいしてからのことです。
中将姫の目の前には五色の糸を用いた1丈5尺(4.5メートル)の巨大な織物ができあがっていました。そこには、中将姫があの日の夕空に見た輝かしい浄土が表されていたのです。
この織物こそが国宝『綴織當麻曼荼羅』なのです。
ちなみに駅前には当麻名物の「中将餅」が売っています。もちろん、中将姫にちなんでいます。
甘味を押さえた独特のあんと、よもぎの香る餅の調和が堪能できます。
中将姫の信仰された観音菩薩は平安時代に木彫に刻まれ、「導き観音」として「中将姫剃髪堂」に安置されています。
中将姫が「あの日の阿弥陀仏と浄土をまた見せて欲しい」と祈願した日であることから、毎月16日は「導き観音祈願会」が開催されています。
今日は8月16日。「當麻寺盂蘭盆会法則(うらぼんえほっそく)」に依ったお勤めでした。
久しぶりに真言宗の法要に参加しました。
声明と読経に尺八の献奏が添えられていました。意外と相性が良く、非常に面白い試み。
取材を終えて、個人的に行きたかった高雄寺へ。
當麻寺近くにある浄土真宗本願寺派のお寺です。現在は無人。
ちょうど1年前の記事で詳しく触れていますが、当麻は源信和尚出生の地です。
このお寺も和尚の旧跡として知られます。
合掌