清浄寺

青年布教使現地研修会に参加しました。


埼玉県吉川市にある清浄寺さまです。

清浄寺の開基である西念(さいねん)法師は、今から800年前に源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州(長野県)高井群にある井上城の城主であった井上盛長の子として生を受け、名を三郎貞親と申しました。
やがて貞親5歳のとき、父・盛長が奥州の乱で討ち死にし、また28歳のときに母と別れて世の無常を観じ、当時流刑地であった越後(新潟県)におられた親鸞聖人を訪ねて門弟になったといいます。

親鸞聖人は貞親に西念という法名を授け、西念は常に聖人にお供していました。
ところが、やがて聖人は赦免され関東に向けて旅立つことに。西念31歳のときです。
聖人と供に武蔵国安立郡野田(さいたま市)に坊舎を建立。西念寺と号し、教化の一歩を履むこととなりました。

その後、聖人の命により、諸国の船通路で諸人の集まるところであった二鄕半木売川戸(吉川市木売)に西光院(現在の清浄寺)という念仏道場を建立。これが清浄寺のはじまりです。
西光院には親鸞聖人もたびたび足を運ばれ、有縁の人々に説法し、当時の縁起には「参詣市の如く群集せり」と伝えられています。
西念は木売の西光院と野田の西念寺を行き来しながら、お念仏弘通の生涯を送られました。
やがて1289(正應2)年3月15日、隠居地の西光院、すなわち当寺にて御往生されました。西念108歳のことです。
さて、現在の清浄寺には西念が親鸞聖人から賜ったと伝えられる親鸞聖人木像が本堂に安置されており、この御木像は「おむくさま」と呼ばれています。
西念亡きあと、西光院の第3代であった西順の時代に世は乱れ、御木造が失われることを恐れ、西順は御木像を門前に埋め隠しました。
やがて西光院の第4代である了世のころ、御木像を埋めたところが「むくむく」と動き、村人たちがそこを掘ったところ、御木造が出現したそうです。
この御木像は「むくむく」と現れたので、いつのころからか「おむくさま」と呼ばれ、掘り出した跡は池をつくり「おむくの池」として現在まで寺の門前にあります。

合掌

前の投稿

次の投稿

2018年10月24日